7週間の辛抱と切り取れない悩み

寂しさが体を包む。
目覚めて窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が薄いベールとなってまとわりつく。

春になる一歩手前のこの気温は、今の私が抱える寂しさを表してくれている気がする。気持ちを、感情を数値で測れる温度計のようなものがあればいいのに。

そう考えながら、寝起きの乾いた口を開き身体中に空気を染み込ませる。聡子は伸びをしてからキッチンへ向かった。

 

毎朝、聡子が寝起きに飲むコーヒーを徹は嫌う。インドネシアスラウェシ島で取れる、通の間では知られているもので、コクがあって苦く、他のものと比べて後味が強く残る。朝、この香りが鼻孔を通り過ぎるつかの間の時間が幸せなのだ。

好みは珈琲に止まらず、味噌やドレッシングの量など些細なところで分かれる事を、どうして交際している最中に気づけなかったのだろう。

指摘し合う程のものじゃないとどこかで思っていたから、口に出さなかったのだろうか。2人の間柄が壊れるほどの深刻な事柄ではないけれど、自分の気に入った珈琲を、毎朝「美味しい」と2人で言い合うくらいはしたかった、と聡子は思いに耽った。

 

 

 

しばらくの間絶っていた珈琲の味を、自分の舌が覚えていることに少し驚いた。過剰なカフェイン摂取はお腹の子供に悪いと聞いていたので、それならばと思い妊娠がわかってから一切口にしなかった。それは今までにないくらい徹底した我慢だった。

医者にも、先輩の妊婦さんにも一日一杯程度なら問題ないと教えられていたけれど、自分の内側にある命を慈しむ度に、量など関係なく影響があるものは一切排除したいと、あの時思ったのだ。

毎月、痛みが走るだけだった憎たらしい体の一部分に命が宿ったのには、神秘的なものを感じずにはいられなかった。白乳色のヴェールに包まれるような優しさで、この子を守ろうと決めた。妊娠報告の時の夫の喜んだ顔と、孫が出来ると飛び上がる勢いで喜んだ両親の顔が未だに焼き付いて離れてくれない。あの時の愛情が満ち溢れた歓喜を思い出すと、まだ見ぬ子どもはどんなに幸せな人生を送れるだろうかと想像し安心しきっていた。

 

命に対する配慮は珈琲だけではない 。中休みの水曜にだけする暴飲暴食。週末に夫の徹とする晩酌(主にブランデー)。聡子を満たす3つを止めたのは、たったの7週だった。

 

 

それはちょっとした休憩だった。
家事に疲れた昼間にヨハネス・ブラームスの子守歌を聞いてうたた寝する。息が上がって来たので早足を普通の速度に切り替える。聡子の休憩はそんな感覚だった。

 


妊娠初期には珍しくないのだと、悲しみと恐怖を和らげるのが義務かのように医師は穏やかに、でも言葉は暗記した定型文をすらすらと述べるように説明した。

 

 


悪いのは私たちじゃない

 

 

医学的な根拠は、罪悪感を取り払うのには不十分だ。体の内側にあったもう1人の体温が無くなり、代わりに冷たくて黒い塊の渦が子宮に宿った感じがした。

寝れない夜は、ベランダに出て深夜の空気を吸い込む。今日も寝つきが悪く、深夜の2時くらいにベッドから抜け出した。体を動かした時のベッドが軋む感覚で夫の徹が起きる。

「んん…」と小さな声を漏らす程度だが、こちらの動きに気付いたことによる反応だろう。

 

 

この人はなんて眠りが浅いんだろう。これじゃ子供の夜泣きで何日も寝れないじゃない。

 

 

ずっとこう思い、徹の寝起きの悪さに苛立っていたけれど、しばらく前までは現実になりうるであろう家族像が再び徹の寝起きで頭に描きだされて、息が上がってきた。涙が流れ目が充血する。深夜のベランダに1人でこんな醜態のまま無駄に時間を過ごした日は、もう何度もある。

 

命が体から流れていったあとは、いつものように決まって生理が来た。なんのために私の子宮は数ヶ月も血液をためていたのだろうという悲観が止まらず、再び憎たらしい鈍痛に耐えるだけの日々が始まった。

 


なによりも愛しかった命。
雨の日の窓に張り付いた水滴が流れる感覚で、すっと軽やかに憂鬱さを交えて落ちていく。

我慢した珈琲の意味は一体何だったのだろう。
あの時の喜びと、守ろうと決めた決心はなんだったのだろう。

 

徹はあの日以来、ものすごく、過剰に。薄いガラスかのように聡子を扱う。
何をするにも意見を優先してくれ、休息をたっぷり与え、38度のぬるま湯につかっているような気分にさせてくれる。そうすることで、聡子が抱いている悲しみには直接触れずにいるのだ。早く立ち直れ、忘れろ、次がある…そんな傷になるような事は一切言わない人。そして、愛情すらも与えられていない気がした。

 

 

 


子供を殺したのは私なの

 

 

聡子は口には、表情には出さずとも、そう思っていた。
思っていたというより、紛れもない事実なのだ。

 

 

 

 


妊娠を告げたあと、徹が以前から浮気をしていた女に会いにいった。
彼はそのことを知らない。


女は聡子より3つ若いが、地味な顔立ちで不倫や愛人という言葉とは一見、無縁だと最初の印象で抱いた。聡子が世間知らずなだけだったのかも知れない。世の中、面と向かって本人に悪口を言う人も少ないしイメージを保つために自己プロデュースなんか一般人でも励んでいるのだ。中身は他人の男が好きでも、外見だけはカモフラージュするもんだろうと、女に会った時新たな教育を受けたような気分になった。

 

 

回数も頻度も知らないが、この女を徹は抱いている。
気付いたのはずっと前からで、カメラマンという職業柄、被写体である女性との交流は致し方無いものだと、心の中にある悲しみをぐっと奥に沈めて割り切っていた。


それでも、私たちは家族になるのだ。
覚悟が双方に必要だと思った時に、女に直接会って「二度と会わないで欲しい」との旨を伝えた矢先、女の口から出た言葉に体が動かなくなった。

 

 

「私も、前に徹さんの子供を降ろしたことがあるんです」

 

 

何を言っているんだこいつは、と聡子は怒りが色となってオーラとして自分の背後に現れているのではと思うくらい、体が熱くなりすぎていた。

女は早くから関係を持っていて、妊娠がわかったのはとある雑誌の専属モデルにどうかという話が舞い込んだ時だったという。そんな一大チャンスに優先すべきものは自分だと身勝手な決意と、徹の勧めで中絶をしたと答えた。女は聡子の存在は知っていた。その後もなぜ関係が続いているのかは知ってしまえば人間性を疑い、夫婦間の潔癖は強まり、共存できそうにないと瞬時に脳の全体で判断を下し、徹と女の細かな関係性は詮索しなかった。


この業界ではありきたりな事柄なんだろうか。
女をレンズ越しに覗いたあとはベッドであれ場所はどこであれ、自分の角膜に直接写す。


憎たらしくて、何もかもを愛せない。
他人と関係を持っていた自分の旦那。それ自体は知っていたが愛の結晶と呼べるものが他の女の子宮にも宿っていたなんて。

 

そう思ってしまった思考を元の状態に戻すことに時間を要してしまい、聡子は2週間ほど何も食べずに、自分自身の体で栄養を供給しはじめ細胞を支えあっていたが、やはり限界だったのだろうか。眩暈が訪れ、ある日腹部に痛みを感じ、処置に戸惑っていた時点で命は消え去った。

 

愚かな行為だった。
誰の辛抱があればこの子は助かったのだろうかと考えたら、聡子は自分自身しか思い浮かばず、女の顔が浮かんでは切り刻み、徹の言葉が雑音に聞こえ、子供の分身として守り切れなかった自分をひたすら恨んだ。

告白を受け止める覚悟がなかったならば、最初から聞かなければよかった。


弱さがあっては、命は守れない。

愛情が欠けたら、新しい芽は奪われてしまう。

 


今後、どうしようか。
離婚した場合、徹はあの女を抱くのだろうか。別の女だろうか。

夜風にあたりながら、曇ってくすんでいる夜空は涙で余計に見えなくなる。
嗚咽を必死に止め、張り裂ける胸を抱えながら、頭は熱を帯びたままで、ぐっと目頭を押さえた。

 

珈琲を飲もう。
あの苦い珈琲を。

胎児に毒だと思ってやめたもの。旦那が好まないもの。私自身が好む毒を飲んで、一先ず今夜は冷静さを取り戻そう。

聡子はあの苦みを思い出しながら、重い腰を上げて台所へ向かった。